廃線調査隊 大間線

 国鉄大間線(大畑線)未成線
 大間線とは、下北半島の付け根の町・野辺地〜下北〜大間までの計画で建設されました。野辺地〜下北間は国鉄大湊線として、現在もJRに引き継がれ運転され、下北〜大畑までは、国鉄大間線として、現在は下北交通として運転されている。大畑から大間までは、大畑線が開通した後に建設が進められ、大畑から下風呂を経由し大間の手前の桑畑まで建設を進められたが、戦争激化とともに工事が中止された。その後開通することなく建設中止となった。

大畑線・大間線の歴史

 昭和14年12月 国鉄大畑線・大湊〜大畑間が開通
 昭和15年 3月 大間線・大畑以北の工事が本格化
 昭和15年11月 大畑〜釣屋浜間竣工
 昭和16年 8月 釣屋浜〜木野辺間の難工事区間着工
 昭和16年10月 下風呂〜桑畑間を突貫工事で着工
 昭和18年 3月 戦争激化のため、建設工事凍結
 昭和?年    国鉄大間線建設中止を正式決定
 昭和43年 3月 国鉄旧大間線の予定地払い下げ決定

大間線の建設について

 昭和14年に現在の大畑線が開通し、現在の運行形態となった。大間線は青函連絡船の代替ルートとして、大間〜戸井間に連絡船を就航させ少しでも行路区間を減らし時間短縮を目的として建設されたそうである。戦争などにより青函の代替ルートを早く確保するため、当時の国鉄は、大間までの早期完成を指示し、下風呂〜大間までの突貫工事を行った。工事のために東京から多数の人が来た。中には朝鮮人の強制労働者もおり、最悪の労働条件の下で働かせたらしい。その為、宿舎より朝鮮人の脱走や死亡者が多数出たそうである。ひどい時代だった。その後、戦争激化の為、建設工事がストップとなった。大間線の建設は、下風呂温泉の先の桑畑まで進んだ所でストップした。その後工事は再開されることは無かった。
 戦後、青函トンネル建設工事の話が上がった。青森側から北海道側へトンネルを掘るのは水深の浅い大間ルートの方が有利と考えられたが、近くに温泉等があり地質的に無理ということで、津軽半島の竜飛ルートを選ぶと事になった。もし、大間ルートに決定していれば、建設工事が再開されたであろう。
 大間線はその後、工事再開の目処が立たずに建設が中止された。建設中止が決定された時期は不明であるが、昭和36年発行の国土地理院の地図には大間線の建設区間を記した応急修正版が発行されているのでこの頃までは建設計画があったものと思われる。昭和47年の発行の地図では、すでに計画路線の記載は削除されているが一部構造物(橋・トンネル)は記載されている。昭和43年3月には予定地の払い下げを正式決定したそうである。
 現在、その予定地は、道路・民家・畑などに利用されているが、沿線には、いくつもの構造物が残されている。特に下風呂温泉付近の駅予定地には階段やアーチ橋が残っています。トンネルの入口はセメントで塞がれており不気味でした。

 

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