おがえもん廃線研究所

国鉄下河原線
現地調査 Part1
国分寺駅〜途中

下河原線の起点
    国分寺駅

 当時は駅の南側は広大な貨物ヤードがあり、その片隅に下河原線のホームがありました。現在、その場所は駅ビルが出来て当時の面影は一切ありません。

下河原線の
  線路は現役?

 国分寺駅を出ると中央線の南側に線路がもう一つあるのです。これが下河原線で使われていた線路の跡なのです。

下河原線は国分寺を出ると中央線と併走していたのでその時の線路が今も残されているのです。

一番奥の線路が下河原線のもの

一番手前が下河原線のもの

 しかし、この線路は現在使われてはいません。約500mの区間だけ残されているだけで、信号ボックスなどが線路上に置かれたりしています。

 なぜ残されているのでしょう?

中央線との分岐点

 まもなく西国分寺という手前で下河原線は中央線から分岐していました。

中央線から分岐すると一気に丘の上まで上がっていました。私が調査したときには、遺跡発掘のため廃線跡は深く掘り返されていました。

 中央線の線路から分岐点先に進むと府中街道にぶつかります。そこに枕木を使った柵が残されていました。ここが廃線跡だと言う証拠ですね。かつてこの右手には国鉄の中央鉄道学園があったのですが、現在は団地になってしまいました。ここにも引込線がありました。下河原線はこの先で武蔵野線の線路になっています。

この先で武蔵野線と合流

東芝府中工場引込線

 北府中駅付近は武蔵野線になってしまったため面影はありません。ここには東芝府中工場の引込線があります。東芝では電車の製造もしているため完成した列車はここから甲種輸送で運ばれます。

写真にはJR貨物の新型機関車が試運転している様子が写っています。

府中刑務所引込線

 北府中駅の近くにある府中刑務所。かつてはここにも引込線がありました。本線から100m位の所にあります。

刑務所の入口が今でも残っています。

 北府中駅を出ると下河原線の廃線跡が再び顔をだします。写真左側の引上線は下河原線へと伸びていた線路です。下の線路は武蔵野線の府中本町方面に延びる線路です。武蔵野線はここから地下へはいります。

 武蔵野線開通後も下河原線は砂利輸送を行っていました。

駅跡?

 上記の写真の先の廃線跡は府中市の施設が建っており廃線は消えてしまいます。しかし、その建物の裏から廃線跡はサイクリングロードとして整備されています。その起点に駅の跡らしい記念公園が設置されていました。

 この公園には線路やホームが残されておりますが、あくまでもモニュメント的なものでここに駅があった訳ではありません。

下河原線廃線跡にあったモニュメントに記されていた内容

 ここは、かつて国鉄下河原線の線路敷でした。
 明治43年(1910)、東京砂利鉄道が多摩川の砂利の採取運搬を目的に、国分寺から下河原(府中市南町3丁目)まで貨物専用鉄道を開通させました。その後、大正3年(1914)の多摩川大出水による被害で一時閉鎖しますが、大正5年(1916)に軍用鉄道として復活し、大正9年(1920)に国有化され、名称も下河原線となりました。昭和8年(1932)に東京競馬場が開設すると引き込み線がもうけられ、昭和9年(1934)より競馬開催日に限り乗客輸送するようになりました。戦時体制が深まってきた昭和19年(1944)国分寺〜東芝前間で通勤者専用電車を運転、戦後の昭和24年(1949)からは国分寺〜東京競馬場前間の常時運転が開始されましたが、昭和48年(1973)の武蔵野線開通にともない旅客が廃止になり、昭和51年(1976)には貨物線も廃止され66年間にわたる歴史の幕を閉じました。
 この跡地は、府中市が国鉄から用地を受け自転車・歩行者道、花と緑の緑道として整備し、郷土の森や市民健康センターなどを結ぶ、市民のための道として生まれ変わりました。

                                      府 中 市

線路が埋められている

枕木が花壇に利用されている

 サイクリングロードはここから下河原方面に続いています。

 甲州街道を挟んで下河原線のモニュメントは続きます。

 甲州街道を越えると線路は無くなり普通のサイクリングロードとなります。

京王線を越えると再び線路が残されているのを発見しました。

次へ   戻る